日本ベトナム友好協会大阪府連合会/ベトナム雑学・達人への道歴史編4



第4話 タンロン=ハノイの1000年(その4)

 第4話 タンロン=ハノイの1000年(その4)
 レー朝のタンロン京城の中心部分はグエン朝のハノイ城となり、これを占領したフランスは城壁と城内の建築を取りこわして兵営を造りました。独立後、そこが国防省の敷地となって現在にいたります。
 敬天殿址.JPG敬天殿址
 レー朝の中心宮殿だった敬天(キンティエン)殿や、その南側の端門(ドアンモン)の場所ははっきりしており、いまでもグエン朝時代の端門や、敬天殿の石段などが残っています。端門下から発見された李陳朝の道らしき遺構.JPG端門下から発見された李陳朝の道らしき遺構
 しかし、リー朝・チャン朝時代の宮殿配置はまったくわかっていませんでした。バーディン広場やホーチミン廟より西、動物園のあたりに中心の宮殿群があったのではないかという説もありました。しかし1990年代から共産党や国防省・人民軍の本部があるバーディン地区の再開発が進むにつれ、つぎつぎと遺跡が発見されたのです。端門.JPG端門
 たとえば端門のすぐ北側で、リー朝・チャン朝時代の、皇帝用と思われる高級タイル敷きの道らしき遺構が発見されました。これは敬天殿の真南にあり、レー朝時代には端門と敬天殿を結んだ皇帝専用の通路がありました。その位置にリー朝・チャン朝時代にも皇帝専用の通路があったとすれば、リー朝・チャン朝の中心宮殿(1010年に乾元〔けんげん=カングエン〕殿、1029年に再建され天安〔ティエンアン〕殿と呼ばれる)も敬天殿の場所にあったと考えてよいことになります。端門-敬天殿-グエン朝の北門を結ぶほぼ南北方向の直線が、リー朝からレー朝まで一貫して、タンロン王宮の「中心軸」だったことが、ほぼ確実になりました。軍事博物館構内の国旗掲揚塔(そのあたりに1010年の昇竜城の南門があったはず).JPG
 つづいて2002年夏、老朽化した国会議事堂(バーディン会堂)を隣接地に立て替える計画にしたがって、建設予定地である「ホアンジエウ通り18番地」の敷地で文化財調査をしたところ、唐の時代(8ないし9世紀)からグエン朝(19世紀)までの多数の建築遺構が折り重なった、巨大な遺跡が出土しました。敬天殿から道路をはさんで西側にあるここは、中心に近い重要な宮殿があったものと思われます。発掘現場・事務室.JPG発掘現場の事務室
 そこで学者たちが猛然と運動して国会議事堂建設をストップさせました。国会でベトナムにもいる「建設族議員」とのはげしい論争があったそうですが、最終的に国会議事堂は現在地での建て替えに変更され、「ホアンジエウ通り18番地遺跡」の大部分と、端門-敬天殿-北門の「中心軸地区」をあわせて、「タンロン皇城遺跡」として遺跡公園化のうえ保存することが決定しました。都護府時代の杭2.JPG
 現在、日本の平城宮保存にたずさわった研究者・技術者の協力などもえて、遺跡のよりくわしい調査と保存・公園化の具体的なプラン作りが進められており、またユネスコの世界文化遺産への登録申請もおこなわれています。中心軸地区では、軍の建物の明け渡し・移転も動きはじめたようです。(続く)

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