日本ベトナム友好協会大阪府連合会/ベトナム雑学・達人への道歴史編3



第3話 タンロン=ハノイの1000年(その3)

 第3話 タンロン=ハノイの1000年(その3)
タンロン=ハノイは歴史上、何度も外国に占領され、また戦火で破壊されてきました。
1010年の建都後、タンロンが最初に外国軍に占領されたのは、1257年、84年、87年と3回おこなわれたモンゴル帝国の侵攻でした。チャン朝はいずれも都を捨てて逃げ出し、ゲリラ戦の末にモンゴル軍を撃退したのです。
元寇を撃退した英雄チャン・フンダオ将軍の像.jpg元寇を撃退したチャンフンダオの像
チャン朝の末期にはまた、中部ベトナムにあったチャンパー王国がたびたび攻め寄せました。1371年と77年にタンロンが奇襲攻撃を受け、71年には宮殿が焼き払われたといいます。そして1407年、胡(ホー)朝は明朝に滅ぼされ、明はタンロンを東関城と呼んで、植民地支配の拠点にしました。
しかし1427年、各地で敗れた明軍は最後にたてこもった東関城も厳重に包囲され、ついに降伏して帰国します。明軍を追い出したレー朝は、ベトナム王朝の黄金時代をきずきますが、しかし16世紀には内乱がつづき、1516年、1592年などにタンロンの都もひどく破壊されたと考えられます。
歴史博物館の「バックダン河の戦い」で河底に植えた杭(1288年に元軍に大勝した戦い).jpg歴史博物館の「バックダン河の戦い」で河底に植えた杭(1288年に元軍に大勝した戦い)
王朝時代で最後にハノイが襲われたのは、18世紀末のタイソン反乱のときでした。1786年に南方から攻めのぼったタイソン軍がいったんタンロンをおさえますが、レー朝は中国の清朝に救援をもとめ、侵入した清軍を、タイソンの英雄阮恵(グエン・フエ)が郊外のドンダーで大破しました。フランス革命とおなじ1789年のことです。
フランスは1873年、82年にハノイを占領、そのたびに奪還されましたが、84年にフエのグエン朝が屈服して、ハノイもフランス植民地となりました。
日本軍の占領(仏印進駐)のさいにはハノイが破壊されることはありませんでしたが、1945年9月2日にホー・チ・ミンがおこなった独立宣言をフランスを認めず、その後の交渉も決裂した1946年12月19日から翌年2月17日まで、ハノイではげしい市街戦がおこなわれました。
ベトナム戦争(抗米救国戦争)中にハノイがすさまじい「北爆」を受けたことはよく知られています、ベテランの会員さんは、「誤爆」によってバクマイ病院が破壊された事件などを思い出されるかもしれませんね。のちにピアノのショパン・コンクールで優勝するダン・タイ・ソン少年は、爆撃を避けるため音を出してはいけないので、弦のない鍵盤で運指の練習をしたといいますね。
「空のディエンビエンフー」特別展で展示された防空ミサイル.jpg87年空のディエンビエンフー展に展示された防空ミサイル
1973年1月、米軍はパリ和平協定を結んでベトナムから撤退しますが、その直前の12月下旬に「最後っぺ」として猛爆撃をおこないます。西側でクリスマス爆撃と呼ばれたこの猛爆をしのぎきり、ベトナムは米軍を撤退に追い込んだわけです。多数のB52を撃墜したこの防空戦を、1954年にフランスに撤退を決意させたディエンビエンフー攻防戦になぞらえて、ベトナムでは「空のディエンビエンフーĐiện Biên phủ trên không」と呼びます。
こうした長い苦難のすえに、今日の平和なハノイがきずかれたのです。
(続く)

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