日本ベトナム友好協会大阪府連合会/ベトナム雑学・達人への道歴史編2



第2話 タンロン=ハノイの1000年(その2)

 第2話 タンロン=ハノイの1000年(その2)
李公蘊(りこううん、リー・コン・ウアン。没後の称号は李太祖〔リー・タイトー〕)が、1010年に今のハノイに遷都し都の名前を昇竜(タンロン)と名付けてから、18世紀末までの間、大部分の時期には、タンロンがベトナム王朝の都でした。
タンロンはその間に、李(リー)朝〔1009-1225年〕、陳(チャン)朝〔1225-1400年〕、黎〔レー〕朝〔1428-1527、1532-1789年〕、莫(マク)朝〔1527-1592年〕、西山(タイソン)朝〔1771-1802〕などの興亡を見つめてきました。
ハノイのシンボルのひとつ文廟(孔子廟)の入り口.jpgハノイのシンボルの文廟(孔子廟)の入り口
14世紀末にチャン朝の実権をにぎった胡季犛(こきり。ホー・クイ・リー)が、1397年に自分の本拠地であるタインホア省ヴィンロク県に遷都し、そこを「西都(タイドー)」と呼んだことから、タンロンに対する「東都(ドンドー)」ないし「東京(ドンキン)」という通称が生まれました。1400年にチャン朝から帝位を奪ったホー氏は1407年に中国の明朝の出兵により滅亡し、1428年にようやく明軍を追い出したレー朝は、都をタンロンに戻しますが、その後も東都・東京の通称が生きつづけます。
ドンキンの中国読み「トンキン」は、タンロンを中心とする北部ベトナム全体の呼び名として、安土桃山時代の日本や当時のヨーロッパにも知られ、19世紀にベトナムを支配したフランス人も、北部をトンキンと呼びました。
23年前のホアンキエム湖.jpg23年前のホアンキエム湖
17世紀(いわゆる大航海時代)のヨーロッパ人の記録には、タンロンそのもののことは、Cacho、Cachu、Ke-cioなどの綴りで出てきます。これは口語のベトナム語で「市場町」を意味するKẻ Chợがなまって記録されたものと考えられています。
1802年、南部から攻め上ってタイソン朝(もともとフエに都を置いたが前年フエを奪われハノイに逃げ込んでいた)を撃滅し、200年以上つづいた南北分裂を終わらせた阮(グエン)朝〔1802-1945年〕は、中部のフエに都を置きます。タンロンは最初北部の中心地(昇隆=タンロンと文字を変更)、のちには単なる省の中心に格下げされて、1830年代から河内(ハノイ)と呼ばれるようになりました。
旧フランス領インドシナ総督官邸.jpg旧フランス領インドシナ総督官邸
しかし19世紀末、ベトナムを植民地にしたフランスは、カンボジア・ラオスをあわせた「フランス領インドシナ連邦」の首都にハノイを選び、総督府を置きました。植民地の経済中心は南部にありましたが、中国進出をねらうフランスにとって、北部のほうが都合がよかったのでしょう。ホー・チ・ミン廟やホー主席の家は、この総督府の跡地に建っています。
1945年8月、日本軍の降伏直後にいっせい蜂起したベトミンは、2週間で全国の権力を掌握し、9月2日、ホー主席がハノイのバーディン広場(ホー・チ・ミン廟の前の広場)で独立宣言を読み上げたことは、みなさんごぞんじのとおりです。そこで成立したベトナム民主共和国が抗仏・抗米のたたかいに勝利し、南部解放後の1976年に成立したベトナム社会主義共和国も今日まで、ハノイを首都としているわけです。(続く)

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