日本ベトナム友好協会大阪府連合会/ベトナム雑学・達人への道歴史編1



第1話 タンロン=ハノイの1000年(その1)

 ハノイ一帯では紀元前の遺跡や遺物もいろいろ見つかりますが、北部ベトナムの中心都市が造られたのは、中国の支配下にあった7世紀のことと考えられています。唐王朝は南方支配の拠点「安南都護府(あんなんとごふ)」をこの地に設置しますが、日本から唐に留学して玄宗皇帝につかえた阿倍仲麻呂(中国名は朝衡〈ちょうこう〉)は、この都護府の長官に任命されたことがあります。

都護府時代の陶磁器 (1).JPG都護府時代の陶磁器1都護府時代の杭1.JPG都護府時代の杭1 860年代に北部ベトナムは、今の中国雲南省にあった南詔(なんしょう)という国家に一時占領されます。さまざまな民族が住むことで有名な雲南省の国家ですから、南詔も多民族国家で、北部ベトナムにも同系統の民族がたくさんいるために、中国の役人の失政につけこんで南詔がやすやすと侵攻できたのだと言われます。
 唐王朝側の切り札として送り込まれ、安南都護府奪還に成功したのは高駢(こうべん)という将軍でした。かれは妖術を使ったという伝説をあちこちに残していますが、「海路で安南に向かう途中、雷で海中の暗礁を砕いて船が通れるようにした(おそらく火薬を使った)」「四川省で大きな堰堤をつくった」などの逸話が残っていますから、いろいろな職人や技術者を抱えていたのだと思われます。そしてかれは、奪還した安南都護府を守るために大規模な城壁都市「大羅城」を建設します。周囲は1982丈5尺(6km強)、城壁の高さは2丈6尺(8m強)あったとされます。唐王朝が弱体化していたため、高駢は任地で勝手に王の称号を用い「高王」と呼ばれたといいます。
都護府時代の杭2.JPG都護府時代の杭2
 その後、唐王朝はますます衰え、907年にはとうとう滅亡します。中国内地の分裂・混乱を利用して、北部ベトナムでは土豪たちがつぎつぎ自立し、そのリーダーであった丁部領(ていぶりょう、ディン・ボ・リン)が966年に皇帝を称します。ハノイやホーチミン市の通りの名前にディン・ティエン・ホアン通りというのがありますが、ディン・ティエン・ホアン(丁先皇)はディン・ボ・リンの死後の称号です。
10世紀には土豪の抗争にしたがって北部ベトナムの政治中心もあちこちに動きましたが、ディン・ボ・リンとその後をついだ黎桓(れいかん。レー・ホアン)は、ニンビン省のホアルーに都をおきました。山の中に都を置いたのは、中国の再侵略をおそれて防衛しやすい場所を選んだのだと考えられています。
都護府時代の陶磁器 (2).JPG都護府時代の陶磁器2

しかし、1009年にレー氏(前黎朝)に代わってホアルーで帝位についた李公蘊(りこううん。リー・コン・ウアン)は翌年、ホアルーで手狭でしかもじめじめした場所にあるのをきらって、高駢が築いた大羅城に遷都することを決めました。旧暦7月、川船で大羅城に着いたリー・コン・ウアンの前に「黄竜」があらわれたので、新しい都は昇竜(タンロン)と命名されました。残念ながら日付までは記録されていないのですが、この年の旧暦7月は、グレゴリオ暦の8月19日から9月16日までに相当します。来年、ハノイが建都1000年を迎えるというのは、ここから数えたものです。(続く)


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