日本ベトナム友好協会大阪府連合会

 

留学時代1

ベトナムサロンで平田さんの留学生活の話を聞いて、思い出しちゃいました。
 
私のコードネームのもとになってるベーバイビス(B7bis)と呼ばれた留学生寮、というかハノイ大学ベトナム語科のことを。
 教室も留学生が住む部屋も全部おなじ建物の中にあり、要するにそこに閉じこめられていたんですが、電気がくるのは夕方5時から朝9時までだったか、停電・断水はしょっちゅう、シャワー室は水だけ、部屋にクーラーなどあるわけがなく天井からぶら下がってる扇風機は部屋ごとに回る速度がちがう、となかなか強烈な生活を余儀なくされました。たいてい11時に午前の授業がおわったあと昼食までのあいだを利用して洗濯(もちろん手洗い)をするのですが、3Fの自室の横の流し場でやってる最中に屋上のタンクの水がなくなることがときどきあり、水圧の関係で最後まで水が出る1Fに駆け下りてすすぎをしようとするも間に合わない、という悲しい思いをしました。洗濯といえば、夏は昼前に洗って干せば昼寝をおえるころにはなんでも乾いていて助かるのですが、冬は永遠に乾かなくて往生しました。  
 
 てなことで、あの薄暗ーい電球も今となってはなつかしい
 
 

留学時代その2:自転車

 15年前のハノイは、バイクがそれなりに増えていたものの、まだ圧倒的に自転車とシクロの世界でした。
最初の1年、ベトナム製の赤いミニサイクルに乗っていた私は、ハノイの有名人の一人だったようです。これが、パンクが多いだけでなくブレーキワイヤがすぐ切れるし、買った翌日にはサドルの支柱が使い物にならないことが判明し、サドルを交換することになったし、などなど次から次へと壊れ、1年後にはもとの部品はほとんど残っていない状態でした。
 
 当時は路上のパンク修理屋など自転車直しはどこにでもいたので、直すのも簡単でしたが。2年目はプジョーの新品がドルショップで珍しく手に入ったので、ぐっと楽になりました。
 
 毎日午後や夕方には、レーニン公園の南のB7bis寮から旧市街や、ときにはホータイ(西湖)湖畔のタンロイホテルまで自転車をこいで、知人を訪ねたり食事をしたり、というのが寮に閉じこめられている留学生の息抜き、娯楽でしたが、夏の猛暑、冬の霧雨のときには、自転車をこぐのにつらいものがありました。それから、ときどきあったのが、遅く帰る途中で「全市停電」。
  真っ暗な中を自転車で走る恐ろしさ。上を見上げると「100万都市の上空でこんなに銀河がきれいに見えるのか」と息をのむような星空が見られました。
 
 

留学時代3:たたかうガトー

  しつこく留学時代(1986−88年)の思い出です。
 
  食い意地の張った私は、食べ物探検に精を出していました。今と比べれば貧しかったそのころのハノイでも、おいしいものはいろいろあり、毎日が楽しみでした。
  甘党の私には、チェーとか餅菓子も絶好でした。しかし困ったのが、当時はパンや洋菓子が悲惨のきわみだったこと。ホーチミン市やプノンペン、ヴィエンチャンとちがってハノイのフランスパンはふにゃふにゃ、ばさばさで「バインミーをパンと訳している辞書は間違いだ」などと留学生の間で言われるしろものでしたし、クロワッサン、ケーキ(フランス式にガトーと呼ぶ)、ロールケーキなどもあるにはあったのですが.... 小麦粉は質の悪いソ連の援助品(当時のソ連は末期症状で外国から小麦を大量に輸入していた!)しかなく不足するとタピオカをまぜる、牛乳も国内でほとんど生産していないのでクリームは粉ミルクにうどん粉をまぜたような感じ、ということで全然おいしくないんだけど、結婚式やパーティでも出るし、口のいやしい私はときどき我慢できずに買って食べては深く後悔。一時帰国の際にはまっさきにケーキ屋に走りました。
 
  とりわけ私のような外国人を恐れさせたのが、ベトナム戦争中に撃ち落とされた米兵を収容していたホアロー刑務所(現在、ハノイタワーが建ってるところ)の横の細い通 りに並んでいるケーキ屋街。日当たりのいいショーケースにいつもならんでいるケーキはあまり売れてる様子もなくいつまでも陳列されて。「草木も侵略者とたたかう」ベトナムでは、ケーキも米兵をにらんでいる?? 
 
 数年後にハノイを訪れてこのケーキを食べた考古学者のO川氏が名づけていわく「たたかうガトー」。ちなみに今でもあの通 りに2,3軒はそういうガトー屋が残ってるし、地方へいくとまだ主流です。

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